置賜三十三観音めぐりの30か所めは、白鷹町深山の深山観音。
 ここには以前一度だけ来たことを覚えています。職場の上司だった長井市出身のNさんと白鷹町出身のHさんに連れて行ってもらったので、それは昭和63年のはず。つまり、ここは30年ぶりになるわけです。

 訪れてみると、記憶にある風景とはずいぶん異なります。もっと広くて、暗かった印象がありますが、イメージは勝手な方向に増幅していくものなのかもしれません。それでも背後の山々の眺めに関してはほぼ記憶どおりだというのが不思議です。

 エントランスはご覧のとおり。この右手には駐車場とトイレが整備されています。
 その石段を上っていくと・・・。
 「大悲閣」の額を伴った山門があり、その奥に、立派な茅葺の屋根を冠した観音堂がありました。
 全体として、端正というか、女性的な佇まいの境内だと感じたところ。

 境内左手にあった案内板から。

国指定重要文化財 観音寺観音堂 昭和28年3月31日指定
 観音堂の建つ深山地区は、会津仏教と神仏習合の羽黒修験との交流する交通の要路に位置していた。
 観音寺観音堂は、天台宗観音寺(元、羽黒系修験宗)の所属堂である堂は、阿弥陀堂建築として、古風な形を残すところに、文化史的価値が認められ、昭和28年に重要文化財に指定された。
 創建年代は明らかではないが、柱上組物の舟肘木と丸い円柱は、平安風を思わせる。
 昭和29~31年の解体修理工事の時の調査で、唐様式虹梁や構造的貫(ぬき)等の存在から、建立年代が室町後期と推定された。
 建築様式が、阿弥陀堂建築であるのに対して、堂内に安置されている本尊は、会津立木観音の流れをくむと考えられている丈六をこえる千手観音像である。・・・
  平成3年12月
  山形県教育委員会 白鷹町教育委員会

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 ここは立派。国指定だけあります。
 本尊の千手観世音菩薩坐像は、お参りすると腰から下の痛みが治るといわれており、御利益のあった人々はお礼にわらじやサンダルを供えるのだそうです。

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 白鷹町の北方、最上川の左岸に位置する「高岡」という集落にある札所。三十三観音巡りでもしなければなかなかこういう場所に足を踏み入れることはないのではないか。

 集落内の細い道に入ると、舗装路のどんづまりの一歩手前に山手のほうに伸びる石段があり、その先が目指すところのよう。けっこう長く、それなりに勾配もある石段を上っていくと、中腹の開けたところの陽だまりに観音堂が見えてきました。周りには多くの石碑が並んでいます。

 観音堂の正面左手に立札があったので、その内容を以下に移記。

高岡観音
 置賜三十三観音の第27番札所。
 もともと第27番札所は南陽市宮内の「池黒村の三堀寺」であったと言われるが、明治初期の神仏分離令に伴って、地区民の協力を得て霊場番号を譲り受けたと伝えられる。
 お堂までは、長い石段が続き、参堂沿いには清水が湧く。広い境内は杉林に囲まれ多彩な石碑が建つ。
 本尊は、青銅の十一面観世音菩薩立像。秘仏とされている。
  白鷹町教育委員会

 お堂までの石段は160段あり、毎年4月29日には境内で演芸大会が催されるのだそうです。

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 赤湯温泉街の後ろのほうにある山の中にある大きなお寺。烏帽子山八幡宮や烏帽子山公園とつながっています。観音堂の場所が特定できず、山中をあちこち歩くことになりました。
 温泉街から少し外れたところに「東正寺駐車場」を発見したのでそこに駐車して、脇の小道から山に入りましたが、それが間違いのもと。道なき道を行くと墓地に出て迷子に。まずはそこから見える景色を眺めて呼吸を整えます。

 ウロウロしていて見つけた「烏帽子石」。
 脇にあった説明書きによれば、この石は赤湯七石のひとつで、古文書によれば、「塩竈明神より慈覚大師の方へ使いの神来たり、問答終わり塩竈に帰ろうとするときに烏帽子を置いた石である」とのこと。そして、烏帽子山公園の地名も神社の社名もこの石から名づけられているとのことです。

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 でもって、ようやく見つけた観音堂。
 本尊は木造の聖観世音菩薩立像で慈覚大師の作とされています。
 福島県会津地方の若松山山頂に安置されていたものを川西町の地主・佐藤作兵衛が深く信仰し、元禄年間に自分の所有地内に拝受。以来「若松観音」「作兵衛観音」とも呼ばれ信仰を集めているとのことです。

 なお、境内内に「赤湯温泉の由来記」の石碑があったので、以下に引用しておきます。

赤湯温泉の由来記  飲んでも効く霊泉
 赤湯温泉の由来ついては諸説があります。
 平安時代後期、八幡太郎義家の弟義綱が傷を負った戦士を湯に入れて治したという寛治7年(1093)の説、鎌倉時代初期、二色根薬師寺と弘法大師、そして米与惣右衛門が登場する正和元年(1313)説などがあります。
 江戸時代に刊行された諸国温泉番付の上位に揚げられており、米沢藩主、奥方がしばしば訪れ静養されたり、また各方面からの客で殷賑をきわめた温泉でもあります。
 赤湯の「赤」は「閼伽」(仏前に供える飯や花、水)からきたとも、また「大日如来」「地蔵菩薩」からきたとも言われています。
 古い歴史をもつ赤湯温泉は浴用に飲用に効きめあらたかで、霊泉として今に語り伝えられています。
  平成16年6月
  寄進者 後藤榮四郎

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 2番札所の高峰観音へ。
 飯豊町手ノ子、R113から白川ダム方面に入って少し行ったところにある大きなお寺の一角に、観音堂があります。
 寺の入り口には新しい石碑。その奥にあった看板の内容を以下に引用。

源居寺(山号珠琳山)
 曹洞宗で、手ノ子郷の地頭主遠藤四朗左エ門(元禄元年没)の開基、本尊は聖観世音、遠藤氏は伊達氏の家臣で手ノ子館(ここから北500m)に在り、越後道120里の総成敗職であった。
 元、玄光寺と称し、館の付近にあったが火災のため現在地に移り源居寺と改められた。

大鹿観音堂
 元、大字高峰大鹿(ここから南6km)に在ったが、昭和46年白川ダム水没により源居寺境内に移された。
 本尊は十一面観世音、遠藤四朗左エ門の守り仏であったが、祓官の井上源左エ門に与えられ、のち大鹿の地にまつられたものと伝えられている。
 置賜三十三観音の第2番札所である。

 ナルホド。寺自体は火災のためこの地に移転。
 観音堂は、もともと中津川方面の高峰にあったものが、所在地がダム建設により水没することになったため、最近になってこの地に移されたと。

 かつて職場に、飯豊町から通ってくる遠藤さんという上司がいましたが、四朗左エ門の末裔だったのでしょうか。「遠藤」は飯豊町に多い苗字かもしれません。

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 南陽市宮内の熊野神社と双松公園の近くだというアバウトな地図を頼りに行きましたが、なかなか見当たらず。グーグルマップで探すと、ナント!そのずっと山奥じゃん。
 車ですれ違いができない細道を山手のほうにかなり上って、熊でも出るのではないかと思うような場所に、長谷観音はありました。実際、熊よけと思われる破裂音が時折響き渡っています。

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 しかしそんな場所にあるにしては立派な観音堂です。
 慈覚大師が熊野権現に参詣したところ、荒廃した社殿を再興させようと自作の聖観世音像を安置したとされています。
 宮内の領主・大津土佐守本次が飛騨の工匠に造らせたお堂は精緻を極め、匠堂と言われたのだそう。
 本尊の聖観世音菩薩立像は現在のお堂が再建された際に、奈良時代の高僧・行基が作像したと伝えられています。

 写真右手に見えるのは、須藤永次翁のレリーフ。宮内生まれで吉野石膏株式会社社長となり、宮内の発展に尽くした人物です。

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 寄り道した熊野大社。
 大同元年(806)、平城天皇の勅命により再建されたと伝えられています。
 歴代の領主である伊達氏・最上氏・上杉氏の崇敬を受け、社領の寄進や社殿の整備が行われました。神仏習合の時代には、熊野三山と同じ証誠寺の寺号を称することを許され、熊野修験の一大霊場として栄えました。



 手元にある巡礼マップには「番外」として記されているものの、置賜三十三観音の公式サイトには記載がない亀岡文珠観音堂。
 学業成就の文殊様として数回訪れたことがあるものの、それは遠い昔なので、改めて参拝してみました。

 松高山大聖寺は真言宗智山派に属し、奈良県桜井市の安倍文殊院、京都府宮津市の智恩寺とともに、日本三文殊の一つとされています。
 大同2年(807)に徳一上人(当時の奈良東大寺住職)が、平城天皇の勅命を受けて、中国五台山より伝来した文殊菩薩をここ亀岡に移したのが始まりと伝えられています。

 参道のつくりはさすがに立派。両側には石碑や石灯篭、石仏などがたくさん。
 文殊堂はご覧のとおり。来観者も多いです。1914年の改築で、伊東忠太の設計によるものだとのこと。

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 そして、観音堂のほうはこちら。
 鐘楼堂と共にこの境内で即身仏になった待定坊が諸国を行脚し4万数千人の浄財を得て、享保16年(1731)に建立されたもの。
 堂内中央に阿弥陀如来、その脇に正観音、十一面、如意輪、馬頭等、33体の観音像が安置されていて、縁結びの観音として信仰されているようです。