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 2006年5月に立ち上げたブログから沖縄・琉球弧関係以外の部分をスピンアウトさせ、足掛け14年にわたって山形生活での思い、山形県内の名所・旧跡めぐり、ベトナム、佐渡、壱岐・対馬への旅などについて書き、管理してきた「迷える日々inヤマガタ」ですが、このたび第2の人生をスタートするに当たり、更新を終了することといたしました。
 長い間、駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 今後は、新ブログ「織りなす日々 ジルー的 2nd LIFE」において、続きを綴ってまいります。
 引き続きご愛読いただければ幸いです。

yellow 201411
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hippobloo 201903

 4月になったら離島に行くことにしているのですが、今使っているビーサンは硬いつくりのため、少し長く歩くと足裏が痛くなってくるのです。
 これではだめだろうということで、このたびネット通販でビーサンを新調しました。

 WEB上にはビーチサンダル専門店などというものが存在していて、そこからヒッポブルーというブランドのものを購入。
 カラフルな中からチョイスした色も悪くなく、足に合わせてみるとサイズもフィットしています。課題だった柔らかさも十分で、いい感じなんじゃないかな。

 ビーサンと言えば鼻緒が赤・青・黄のいずれかのインドネシア製島ゾーリが数百円で買えますが、ちょっぴり奢ったっていいだろうと考えて。
 化粧袋付き、税・送料込みで2,324円。
 よし、これで足元も固まった。レンタバイクを借りて、島の端から端までを見てこよう。

 山形市鳥居が丘の定食屋「国味」が、2018年11月いっぱいをもって店仕舞いします。

 「国味」は、ここに移転する前は近くの旧13号線沿いにあったかなり古い建物で営業していました。
 その店に興味を持ったのは昭和の時代。その頃市内南部にあるアパートに転居し、車で店の前を通ることが多くなりましたが、いつも明かりが灯り、人の出入りが途切れないような雰囲気がありました。当時は夜に外食する余裕は時間的にも金銭的にもなく、ここで食べてみたいなと思っていたものでした。

 当時の「国味」とともに、同じ会社で働いていたSさんのことを思い出します。
 ドイツ人のような毅然とした風貌と周到な性格。しかし反面、いったん酒が入れば正体不明になるまでやってしまうようなユニークな人でした。50歳前後の年齢で、単身赴任中。残業をしてアパートに帰る途中に食事処としてよく寄るのが、空腹を満たすにはぴったりのこの店だと話していたものです。昭和62年のことです。
 そのSさんは翌年には山辺町の新興住宅地にマイホームを建て、そこから通うようになります。
 しかしある日、夜の巷でいつものように気持ちよく酔い、タクシーで帰ったものの、新宅までの道すがら川に転落し、帰らぬ人となってしまったのでした。あれはショックでした。

 自分が「国味」に入るようになったのは、新しい店ができてからで、つまりは平成に入ってから。
 大きな唐揚げ5個の鶏のから揚げ定食は当時550円ほどだったでしょうか。どんぶりめしもすさまじく、低価格で満腹になれる幸せを味わうためによく通いました。少し贅沢をしようと思ったら、50円高いとんかつ定食。これにソースをどばどばかけて大量のご飯をかっ込んだものです。
 客層は、日大山形高校野球部の下宿組の面々や、腹ペコサラリーマンや作業服組、若いカップルなどが多かったように思います。今もその傾向は強いけれども、当時の年齢層はもっと若かったように思います。

 この店で食べたときの様々な光景が、人生の節々として思い出されます。
 残業帰りに満員で一つだけ空いていたカウンター席に体をこじ入れて、Sさんを思い出しながらとんかつ定食を注文した時のこと。
 小さかった息子と分け合って鶏の唐揚げ定食を食べて物足りなく感じ、子供の成長を喜ぶとともに次からはちゃんと別々に頼もうと思ったこと。
 食べ盛りの二人の息子たちの食べる勢いに仰天したこと。まだ若かったつれあいもそれに煽られて半ば悲鳴を上げながら一人前を平らげていたものでした。
 土曜日の開店直後に一人で入店して、まだ空いているカウンター席でゆったりと味わう熱々のカツカレーもまた格別でした。
 座敷で食べた焼きそばはソース味で、定食に比べれば量が少なかったな。隣りの席で若者が一人で食べているカキフライ定食もうまそう。焼肉ラーメンなんてのもあったな。
 奥さんにわがままを言って、メニューにない唐揚げカレーやイカとカキフライ定食などをつくってもらったこともありました。

 このような形で30年来、自分はこの店で食べ続けてきました。
 その店がなくなってしまうのは極めて残念で、喪失感も大きいです。

 店の自動ドアには次のような貼り紙がしてありました。

kuniaji close 201811

 いつも揚げを担当しているおっとりした大将と、厨房をくるくると動いている奥さんの姿を見られなくなるのは寂しい。
 長い間お疲れさまでした。

 あの「ありやとぅざい~んす」がもう聞けなくなるのだなぁ。



 今年は台風の上陸、通過が多い年になっていますが、24号と25号の合間の週末に晴れた日があったので、久しぶりに巡礼を復活させてみました。

 置賜巡りの33か所めは、飯豊町萩生の「萩生観音」。
 萩生集落の西の山手のほうにあり、比較的シンプルで特徴のない観音堂がぽつりと建っていました。

 寺の開基は建保3(1215)年で、越後の実義僧都によると伝えられています。当時は長手山の斜面に建てられていたため「長手観音」とも呼ばれましたが、その後現在の地に移築されたそうです。
 観音堂には「長手拾壱面観音堂」の名板が掲げられていましたが、本尊は木造の十一面観世音菩薩坐像。昔から災難除けに御利益があるといわれ、戦時中は兵士が銃弾を受けないように願をかけたそうです。
 堂内にはLEDと思われる白色が灯っており誰かいるのか思いましたが、どうやら常時灯のよう。古いお堂にLEDのミスマッチがユニークでした。

 置賜三十三観音めぐりは残すところ第28番の宮崎観音(南陽市)のみとなりました。



 「置賜」のほうは大詰めを迎えていますが、同時に巡り始めた「最上」は山形市近郊のいくつかが積み残しになっています。今回はその一つ、山辺町三河尻の「三河村(観音山常福寺)」へと赴きました。山辺町は縁あってわりと頻繁に行きますが、須川近くの三河尻の集落に入るのは初めてとなります。これも霊場巡りの一効果。

 駐車場のところにあった山辺町観光協会の説明書きを以下に引用。

第13番札所 三河村観音
 三河村観音は最上三十三観音第13番札所である。
 本尊は、聖観音で秘仏であるが、行基菩薩が第1番若松観音の聖観音と同一の杉で一刀三拝の礼で彫ったという。
 その御詠歌は「いづ入るや 月のゆくへも 三河村 鐘のひびきに 明くるしののめ」と諸行無常の心を詠じ、生死の常ならないことを月の行方にたとえ、108の煩悩の夢を覚まし、極楽浄土に辿り着く様を「明くるしののめ」と表現している。
 お堂は須川河岸に船を止めて上陸した巡礼の人々と少しでも早く対面しようと船着場の方向を向き南面しており、いかにも須川の河岸にある観音にふさわしい。
 境内には病魔に斃れ息を引き取った翁が日頃信仰していた三河村聖観音のお告げにより再び生き返ることができ、そのお礼として奉納した延命石灯篭がある。

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 別当寺である常福寺は、享保年間に火災にあったために古い時代の什器、記録等一切を失ってしまったので、詳しい来歴や由緒が解らないのだそうです。



 南陽市漆山の新山観音。
 ここは観音堂よりも寺が立派。寺へと通じる石段の脇にあった南陽市教育委員会の看板には、その寺の由来が次のとおり記されていました。

鶴布山珍蔵寺(かくふざんちんぞうじ)
 鶴布山珍蔵寺(曹洞宗)は、寛正元年(1460年:室町時代)、極堂宗三和尚(輪王寺2世)による開山と伝えられています。
 開山縁起は、文化元年(1804年:江戸時代)につくられた古文書の「鶴城地名選」(この地方の神社・寺・地理について記したもの)中の「鶴の恩返し」の話に記されております。また寺の名前のうち「鶴布」は鶴が恩返しに羽で織った布に、そして「珍蔵」は鶴を助けた民話の主人公の名前に由来していることも書かれております。
 この地域には古くから民話「鶴の恩返し」が語り伝えられており、鶴巻田、織機川など民話を思い起こさせる地名も残されております。
 また、昭和59年(1984年)には「鶴の恩返し」の話を刻んだ梵鐘が、地域の人々の熱意により奉納されました。
 現在の寺は、火災の後、文化4年(1807年:江戸時代)に再建されたものです。

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 一方の観音堂。こちらは珍蔵寺の境内からさらに石段を上って行ったところに独立して建っていました。
 観音堂の創建については、明和7年(1770)に多勢吉兵エという者が美しい景観に魅せられてこの地に建立したと伝えられているとのこと。
 一対の赤仁王を安置した重厚な構えの山門には大きなわらじが掲げられ、足の病に御利益があると信仰を集めています。
 観音堂に向かう途中の高みからは置賜盆地が一望できます。その昔、上杉家代々の領主がここから領地の検分をしたという言い伝えがあるそうです。