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 上ノ畑からひとつトンネルをくぐって常盤の集落へ。ここには「祥雲山龍護寺」があります。
 集落の中心を走る道からコンクリートで固められた太い参道を100メートルほど進んだところに山門が。
 その山門には次のような説明版がありました。



尾花沢市指定有形文化財 龍護寺山門
 祥雲山龍護寺は、寺伝によると延沢城主能登守満延が再建して、菩提所にしたといわれる。ことにこの山門は、寛文7年(1667)に延沢城の破却の際に、三の丸の大手門を移建したものである。
 3間1戸の切妻屋根、鉄板葺(元は茅葺)である。・・・

 ちなみに、「延沢満延」については、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。最上氏の家臣で、出羽国野辺沢(延沢)城主。
 延沢氏は天童氏を盟主とする最上八楯の一員であり、領内には延沢銀山を抱えていた。満延は武勇に優れ、天童氏らと共に山形城主最上義光と長きにわたり争い、しばしば義光を破った。
 最上八楯を降すためには満延を抑えねばならないと考えた義光は、天正12年(1584)満延の息子・又五郎に娘の松尾姫を娶わせて満延を引き抜いた。この時、満延は降伏の条件として天童頼澄の助命を願い出た。こうして満延を失った最上八楯は崩壊し、天童城は陥落したが、頼澄はかねての義光との約束通りに見逃され、国分盛重を頼って落ちのびていった。同年、義光が谷地城主・白鳥長久を滅ぼすと、その旧領の一部を与えられている。
 天正18年(1590)、義光に従って上洛した際に病に倒れ、翌年、京都にて死去。享年48。

 山門の先には広々とした境内があり、最近つくられたと思しきかわいらしい「ほほえみ幸せ地蔵」、鐘楼などとともに観音堂がありました。

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 本尊は聖観世音で、これも慈覚大師の作。
 寛文年間、延沢の住民土屋又三郎が、深く観音を信じて諸国の霊場を巡礼して歩いている途中、近江の国の瓦原寺に宿泊。その夜、夢に天女が現れ「自分はここの観音だが、お前と一緒に出羽の国に行ってとどまりたいから、明日、私を背負って出発せよ」というお告げがあった。
 翌朝になると、寺の住職が又三郎のところに来て「昨夜おそく、ここの観音様が枕辺に姿を現して「今夜泊まっている修行者と一緒に出羽国の祥雲山に行きたい」と言われた。どうか、あなたが大切に持って行ってくれないか」という。又三郎も同じ頃に同じ夢を見た話をし、二人とも驚いてしまう。
 又三郎はこれを機会に仏門に入る決心をし、山城の国、宇治の黄蘗山で隠元禅師について頭を丸め、尊像を棒じて故郷の延沢に帰った。
 彼は直ちに竜護寺の境内にお堂を建てて観音像を安置したが、これを聞いた人々は毎日、参詣に通うことになった。貞享元年になり、竜護寺の第11世徳眠禅師のとき改築したが、宝歴13年第13世梅林大和尚の代、山火事でお堂が焼けた。尊像と宝物の隠元禅師の書は無事だった。
 その後、スぐに再建されたが、明治45年頃には各所が傷んできたものを、先代の住職が改築し、いまのところに移転したという。平成15年には新築された。

 なお、観音堂の内部はご覧のとおり。まだ新しいです。

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