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kimutakezou1 201707

 R121大峠道路を走行中、「道の駅田沢」の道路を挟んで向かい側に像があるのを発見。これは誰?と思い、道の駅に車を停めて見に行きました。

 それは、郷土が生んだ政治家「木村武雄先生像」でした。
 その人となりを「ウィキペディア」から以下に抜粋。

 木村武雄(きむらたけお、1902年8月30日~83年11月26日)は、日本の政治家。衆議院議員選挙に12回当選。ニックネームは木村元帥、放言居士。美術商の木村東介は兄。長男の木村莞爾、孫の木村忠三は山形県議会議員。

 米沢市出身で、明治大学政治経済学部卒業。米沢市議、山形県議を経て36年の衆議院議員総選挙に初当選。当初中立倶楽部に所属していたが、その後中野正剛率いる東方会に入党。42年の翼賛選挙では非推薦で当選。
 木村武雄の名を一躍有名にしたのが43年3月の翼賛政治会代議士会における一騒動だった。木村は戦時刑事特別法中改正法律案委員会の理事として改正案に反対の立場をとり、代議士会でも真崎勝次や小山亮らとともに同委員会の浜野徹太郎委員長による事実と異なる報告に異議を唱えたが、翼政会総務で主流派の津雲国利が「そういうことはこの俺が許さん」と大手を広げて言ったので、反主流派の中谷武世が「俺が許さんとは何を生意気な、津雲をやっつけろ」と叫び、それに応じて木村は津雲に飛び掛っていった。木村はこのことにより武闘派政治家としてその名が知られることになった。その後大日本政治会の結成には参加せず護国同志会に参加。
 戦後、日本自由党の結党に参加したが、公職追放。
 52年の衆議院議員総選挙にて山形1区から返り咲き当選を果たし、政界復帰。保守合同後は佐藤栄作派→田中角栄派に所属。西村英一とともに佐藤、田中両元首相に意見できる数少ない人物であった。
 67年に第2次佐藤内閣第1次改造内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官、72年に第1次田中角榮内閣の建設相兼国家公安委員長。
 79年の衆議院議員総選挙で落選したが、80年の総選挙で返り咲く。
 83年11月、81歳にて死亡。
 「元帥」のニックネームで親しまれたが、上記のとおり軍歴はなく木村の独特の風格から名付けられたものである。


 山形県人にとっては懐かしい人物です。田中角栄の側近中の側近として知られていました。
 なにせ、「元帥」と異名を取るほどの人物ですからね。言うことか豪放磊落だったものな。

 像の脇にあった石碑を見ると、平成24年10月の建立のよう。
 その全文を以下に移紀しておきます。

木村武雄氏立像 碑文
 独特の風貌・風韻に、政界での際立った存在感が相俟って、誰呼ぶとなく「元帥」と称された政治家 木村武雄氏。
 氏の立像がこの地に建立するのは、目前の国道121号線、通称「大峠」の改修が、恐らくは氏の手掛けた最後の事業であるからに他ならない。
 大峠は車の往来にも不便な、冬は通行不能の難路であったため、その改修は地元田沢地区挙げて要望する所となり、特に大友庄蔵氏や道路愛護会会長の伊藤良橘氏をはじめとする先人有志の熱情が、こよなく郷土を愛する木村武雄氏を揺り動かして成されたものであります。
 本立像は、田沢地区先人の後世に果たした遺産を顕彰し、郷土が生んだ政治家「木村武雄」氏の銘を以て記するものであります。
  田沢自彊会
  田沢道路愛護会
 平成24年10月吉日

kimutakezou2 201707

 でもって、元帥のこの風貌。
 口髭を蓄えた口元や、えらの張り具合などに、生前の矍鑠としたところがよく表現されています。

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