今年の夏は雨の日が多くて盛り上がりに欠けましたが、その夏もピークを過ぎた8月の第4週末は久々に晴天。このチャンスを逃すまいと、最上三十三観音のうち最上町にある3か所を巡ってきました。

 山刀切峠を越えて、まずは赤倉温泉近くの第31番札所の富沢へ。
 富沢集落にあり、仁王門が立派。そこを潜れば石鳥居と石の狛犬があり、敷地が広くて本堂までの奥行きがあります。
 本堂への石畳の両側には「湯殿山」と大書された石碑、土俵、鐘つき堂、地蔵様などがありました。



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 某ウェブページによれば、富沢は次のとおり。

 本尊は、慈覚大師の作とされる馬頭観世音。
 清和天皇の貞観5年(863)、慈覚大師が東北行化の途次、この地が形勝の地であるため補陀落山と名づけ、ことに駿足の馬が各所に放牧されている様子を見て、産馬に適し民の生業を利益するなりと、自ら馬頭観音の座像を彫刻し、精舎を建立、安置して、地方民を信仰に向かわせると共に大いに産馬繁殖を奨励された。これが当観音の始まりとされる。
 後、小栗判官正清(伝説上の人物)がある者の奸計で、楠の馬場で鬼鹿毛の馬に乗せられたものの、幸いにもなんとか乗り回して危難を免れます。それは日頃から観音を念じていた功徳によるものと考え、そこの楠で観世音を刻んでこれを良馬の産地に祀り、後世駿足の名馬を産することを祈ろうと、その臣の小太郎に命じます。
 小太郎は尊像を背負って各地を訪ねて当地に来ます。小太郎は、この地の地名「小国」と小栗は音が近いと喜び、古来名馬の産地なので主の命を果たす好適地として、観世音を納めて立ち去ったとされています。
 この観音は時の地頭領主の尊信が篤く、小国日向守時代(1580)は祈祷料の奉納があり、その後新庄藩主戸沢家で代々寺領12石を寄進し、その代替りには必ず格式行列で参向しました。
 観音堂はその頃も現在の場所にあり、小国家繁昌の頃に一度赤倉川向の檀の沢に移りましたが、寛政9年(1797)戸沢能登守政親によって再び現在地に移建されました。
 万延元年(1860)当町志茂の百姓与平が観音に祈願して得た「千里の駿馬」は戸沢家に買い上げられ、「梅ヶ枝」と呼ばれて主君から寵愛されました。江戸大火に際して藩主は、馬術師範の入江源蔵具信に命じて、名馬梅ヶ枝で江戸に上らせます。新庄からわずか一昼夜で江戸屋敷に到着したので、藩を上げて賞讃したといいます。
 富沢馬頭観世音は、東北三大馬頭観音の一つで、県内外から多くの参詣者が訪れます。春秋2回の大祭があり、畜産繁栄、蓄霊供養とともに身体健康、交通安全、厄除けの観音として信仰を集めています。

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