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 2018年の春がこの地にもやってきたので、昨年からやっている最上と置賜の三十三観音めぐりを再開。その第1弾は、置賜23番札所の川井観音です。
 米沢市の川井集落の中央付近。この地に入るのは7年ほど前に米沢ラーメンの名店「幸来軒」と「川井食堂」を訪れて以来となります。



 行ってみると、ご覧のとおり仁王門?の屋根の下には除雪機が置かれ、観音堂にはオレンジ色のシートが巻かれており、冬はようやく去って春の準備はこれからだという様子。うーむ、巡り始めるにはまだちょっぴり早過ぎたでしょうか。
 ささっと眺めて、地内にあった看板等を移記して茶を濁しましょう。

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 まずはここ「桃源院」の縁起について。
 『鬼庭左月(おにわさげつ)は源平時代の勇士、斎藤別当実盛(さねもり)の末裔で、伊達晴宗、輝宗、独眼竜政宗の三代に股肱の臣として仕えた評定衆の筆頭であります。
 名は良直、通称周防、左月斎はその号です。
 桃源院は、天文13年(1544)、左月斎良直公により現在地に創建され、山号を和合山(のち和光山)と称し、開山は梓山松林寺3世一華宗甫大和尚であります。
 その後独眼竜政宗が仙台に移封されるとともに、桃源院も宮城県志田郡松山町千石本丸(現在、宮城県大崎市松山千石本丸)に移ることとなりました。
 川井村桃源院は、当地に残った人達によって再興されたもので、曹洞宗寺院の命脈である法系は瞬時も絶えることなく、連綿として引き継がれています。
 当院に於いては、左月斎の法名自光院殿剣外参心大居士の尊霊を祀り、報恩供養を日々怠りなく修するよう口伝されています。(宮城県図書館蔵・茂庭氏公式記録)』

 良直は、伊達政宗が佐竹・葦名氏らの連合軍と戦った「人取橋の戦い」で、高齢でありながら崩れかけた伊達勢を支えて奮戦し、自身は討ち死にしました。
 その後、鬼庭氏は、豊臣秀吉から「茂庭」の姓を受け、また伊達氏が宮城県岩出山、仙台と移ったことにより鬼庭氏もそれに従いました。
 桃源院も、茂庭氏の采地の宮城県大崎市松山に移りましたが、この地の桃源院は残った人たちにより再興され引き継がれます。

 次に、本尊の「羽黒本地身代り聖観世音」の縁起について。
 『鬼庭左月良直公の始祖 斎藤実良は、下野那須に居住していたが、茂庭村屶振(なたぶり)の文五郎より、信達(しんたつ)、余目、十八郷民に難をする大蛇の話を聞き、これを退治することになり、人身御供に家臣 紺野図書の妹 さる姫をたてるのである。
 母は姫の安泰を念じて聖観音像を贈ったが、加護の霊験あらたかに大蛇退治もでき、さる姫の身も無事であった。
 姫は一度は仏に捧げた身であるとして、茂庭村地蔵岩の西北に一宇を建てて観音像を祀り、自分は尼僧となって観音様にお仕えして生涯を送ったという。
 後に左月公が先祖の菩提を弔うため、川井の地に桃源院を創建されるにあたり、観音堂もともに移されたものと思われる。
 現在は身代り観音、置賜23番札所として十方の信心を多く集めている。』

 本尊は、伝説によれば、百姓が川底に光るものを見た日の夜、夢枕に仏様が現れてお告げを受け、その木を川から探し出して三体の仏像をつくり、根元でつくった仏像を羽黒神社に納めたといわれています。


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